昭和五十四年三月六日
御理解第三十五節 朝の御理解
「信心は日々の改まりが第一じゃ毎日元旦の心で暮らし日が暮れたら大晦日と思い夜が明けたら元旦と思うて日々うれしう暮らせば家内に不和はない」
信心は日々の改まりが第一。家庭に不和のなきが元、という御理解がありますがここにも最後に家内に不和はないと。日々改まる事が改まっていく事が信心だと思い、それこそ信心の心構えというものがもう日々を本当におかげ頂いてありがたい、という心の底からお礼が申し上げるところはお礼を申し上げ、おわびをさしてもらうところはおわびをさして頂いて、ね、ありがたい寝につかせてもらう。言うならばあれも片付けた、これも済んだというように大晦日のような心を作っとかずして朝だけ元日の心になろうったってダメだ、とね。朝は本当に清々しい目覚ましのおかげを頂いて昨日一昨日のご理解じゃないけれども、ね、まず自分の心の調子がありがたい。頭の調子は身体の調子はと言わばその三拍子そろうた調子が出てくるようなそういう状態。そういう心で神様へ向かう、ね。神様にはも苦しい事、悲しい事、言うことだけのように頼むことだけのように思うような信心では本当の信心は頂けん、ね。
だから日々の改まりが第一。家庭に不和の無きが元、と言うのはここでは家庭にが円満であるというだけの事ではない。これは信心させて頂く者の上での私は不和がない、という事は一家が信心であるという事でと思うね。信心はなくても家庭円満のところがありましょうがね。それはならお徳にもおかげにもつながらないね。
だから家庭が勢を揃えて家庭が不和の無きが元、と言うのはね、家庭中が信心を頂いておる。不和がないと言う事はない。 ある いろいろ意見がちがう事があるけれどもね、そんならあの親先生はどうおっしゃるか、とで決まるような家庭だ、と言うこと、しんじんだとね。
そこにはも必ず神様中心なんだ。
だからおかげ頂かんはずはないね。神様を中心に、ね。ここんところは合楽理念ではどう説いておるか。親先生はどう答えて下さったか、とならそれでもうそれこそすっきりしたこと。親先生を信じておるなら神様を信じておるなら、ね。そこにキッと焦点が合っていく。もうこれなら絶対に繁昌というかね。もうそれこそ徳つかみて栄える家や菊の花である。もう絶対繁昌に繁昌を重ねていく事でしょう子に孫に伝わっていく事でしょう。それにはまず信心は日々の改まりが第一だと、ね。本当に自分の心を整えようとするためには絶対改まりがいるんですね。息子が悪いけん、とか嫁ごが悪いけんとかいうような事じゃ心は整いませんね。自分自身の心が整えられる。
そこには私が改まる以外ない、という結論が出てくるです。
私は今朝からこういうお夢を頂いた。『どうも御本部のようです。全然模様は違いますけれども、何かがまあ御祭典か何かがあってお店がこう沢山出ておる。それがもう夕方なんです。もう行き当たったところに小さな祠があって氏神様が氏神様の前にはおさい銭箱なんかがあっておさい銭が上がっておる。金光の町に氏神様があったじゃうかと私は思いよるところにやった。
そしてまいっちょずうっと行くとその両方に丁度ご大祭の時に沢山のお店が出とりましょ。あっいう店がずうっと出ておるところであった。その中に久留米の井上峰子さんが二段構えの、二段になっておる車に車を積んでしもうて「もうあんまり売れませんけん方付けました。
」ち、私が丁度通りかかったから言いなさるとです。下の方はたいがい売れとるけども上の方がまだいっぱい商品がのっておるわけです。
そしてもうやっぱ一家中で来なきゃダメです、とこう言う。自分一人じゃ間に合わない。さあ売れる時には。』私は今日のご理解の一家が不和の無きが元だ、ということだと思うです、ね。ここで私は今日皆さんに聞いて頂きたいのはあの不和がなき、というのはコットリとも言わんと言うこっちゃないということ。コットリがあってよかて
けどもんなら親先生はどう言いなさるかでピシッと決まるような家庭でなからなきゃダメだということ、ね。そりゃ向上していく為には進展していく為にはみんな同じ意見じゃない場合もあるのですね。主人と家内の意見が真っ正面から衝突するような場合があるけれどもそんなら親先生にお伺いして決めよう、ならそうしなさい、でピシッと決まっていくような信心、それが不和のないという事だ。信心に不和の無きが元、ね。私はその夕方である、という時にね、いわゆる「斜陽教団」と思いましたね。
昨日は壮年会の時にお話が出てましたけれどもあの宗教として国家が認めるのは五十万以上の信者がなからなければもう教団として認めないそうです。つい此頃までは金光教は載っとった、て雑誌に あのご本にも これは梅井先生が昨日発表しとりました。
それで金光教があるだろうか、と思うて見たけれども金光教は載っていなかった。もう言うなら抹殺されているんだ、とね。成程教団が今あわてているようにです、ね。言うならば斜陽教団と言うことになりますね。
そして『私がその町を通りながら思うとにこげなこつで何の売れるかい。こげん商品も何もなか。バラバラッとしたごたる商品を沢山もってあるのは井上さんだけじゃん。
そして一寸井上さんが出してある横ぞに来たら店員達が前に出てきてからですね、「どうぞ。」ち言うてから押し売りしよるところじゃん。
そして「お年は何歳ですか。お名前は何と言いなさいますか。」と言うてつかまえていいようとじゃん。つかまえられた人はもうせからしかもんじゃけん「そげん名前でん、そげなことあんたどんに言うてからどうするの。」ち言うちからそこからのがれようとしとんなさるところ』ね。それこそ、それこそ愛の心をもって人へ伝えていく、と言うてもです。只言うならば信者の方ばかりを見てとにかくそのお導きをする事はありがたい。けれども内容ももたずに連れて行ったっちゃ助かりもせん教会に、という事を皆が知ってるわけです。
だからあなたのお名前は何ち言いなさいますか、お年は、と言うて導こうとしとる。言うならば売ろうとしよるけれどもちからこうやってめいわくそうにしてから行くところを頂いた。もうまさしく今の教団の姿だな、と思うた、ね。只その合楽の下の方はおかげの商品だから大体売れた。そればってんやっぱりその次から次と、大分売れそこのうたち井上さんが言いよんなさるところ、やっぱり家族中が来やん、ち言うところがです家族が勢をそろえた信心にならなければいかん、とこう思うた。
そしてその上の段においてあるとが何か、と言うとフばっかりです。フ(麩)、食べ物にフ、と言うのがありましょうが。どげん思うですか皆さん。麩というのは鯉のエサですね。下はおかげ。おかげになるとは売れておって、ならこういう信心すりゃこういう徳が受けられる。こういう徳を受けるためにはこういう信心をしなければならないというのは売れとらん、ね。言うならばおかげおかげばかりを目指す人が多くて徳を受けるとか力を受けるというような事はこの麩を食べたら徳のエサになるという事を知らない、というようなお夢でした、ね。
今日のご理解はこれだけでよかろうな感じがするでしょうがね。
まず日々の改まりが第一。家庭に不和のなきが元。
だからここんところをね、なら一朝一夕にしてです、なら家族中がバシッと勢をそろえた信心が出きるというような事があるようはずはありません。どんなに金光教の信心がいかに有り難い、と言うてもね、それぞれの言うなら考え方がありますから一ぺんには行きませんけれども、なら一人家の中で信心する人の信心について行かなければばからしい、という位な信心をです、子でも孫でもついてこずにおられん様な信心をその人自体がしなさい為にはまず言うなら日々の改まりが第一ですよ、信心には構ええがいりますよ、とね。
そしてなら家庭の不和の無きが元というところに入って行かなければならない。どういう信心をさしてもらえればお徳が頂けるか、ね。
昨日たまたま秋永先生が一昨日でしたか、旗崎教会で松影会がございました。
もう皆が集まって開口一番にです、「合楽にあんたえらいその朝参りしとってから二百万円も盗られなさった人があるげなやんの。」と言う話がでた。「もうそれがあなた本人は喜びいっぱいですたい。」ち言うて、もうそれっきりで出なかった、と言う、ね。「そげなあなたのや、朝参りがしとってからあげな事があってから。」ち言うならこれこそもう言うならば合楽を突つく、言うなら材料になるようなことじゃないか。これはもう私共、もうテレビ、ラジオ、新聞は、九州の新聞は全部に、西日本なんかは四段抜きで出てましたからね。
だから私はそれを、此頃目が薄いから此頃読まれませんから高橋さんに読んでもらってからこれはもう本なこて広告費ださんばい。広告費でじゃ、広告じゃとてもこげなリアールな宣伝なしてくれんばい、ち私は言うた事でした。朝参りに百名からのお参りがあっとったのに、そういう事があった、という事が書いてあるわけね。もう合楽のご比礼を生々と宣伝してくれた感じでしょうが、そしてなら本人は秋永先生が言うとが嘘じゃないて、もうその日も警察でずうっと調べてもろうとにあんた二百万も盗られてからニコニコしてから、と言うて警察から言われた。もう翌る日出て見えてから言われるのに、もう私は大体鼻歌なんてん歌うたこうがないのに、何か知るらん心がこう愉快になって思わず知らず鼻歌が出た、というお届をしておられます。
そして今日はそのお礼に今勝手の方にお魚を一箱お供えさせて頂いておるから、というお届があったから私がそれをお届けさせて、 あのう、言うならばもう例えば そしてから私は帰ってからずうっと考えよったら二百万のと言うかやっぱ三百万はあったと言う。
だから二百万のうが三百万あったちずうっと思い出していったっらね。それでいて鼻歌が出るような、それでいてお礼が言えれるようなそしたら神様から御神米に『佐和楽』というお書下げを頂いた、ね。佐田さんの『佐』、合楽の事です。『和』言うのは平和の和、和賀心の和、楽と言うのは合楽の『楽』という字。どういう場合であっても合楽の者はね、佐和楽のおかげを頂いておる。信心しよってどうしてじゃなくてからもうそれこそニコッと笑いたいものがね、なからなければ、だからおかげになる。こういう行き方が必ずお徳になるです。それが徳の言うならばエサですからやっぱ誰でんな徳のエサは買いきらんですね。
竹内さんのここ二、三日のご信心ぶりというものを見せて頂いておってです、これなら徳が受けられる、私の安心のこと、心が楽なこと、ばさらか、ね。もうとうとう翌る日は頭が上がらんで寝ついちゃった。寝ついたっちゃですよ、三百万と言えば小さい金ではないね。しかも若い、ち言うか女の身空ですよ。女が一本立ちでやって行きよんなさるとに、ね。
そしてあれを思いこれを思いすると元旦にこの事は頂いとった、ちね。「鮮やかに捧げる」と頂いとったが、それこそ三百万という言うなら天地へ対する還元が出来た。そういう事もやはりニコニコせにゃおられんようなものになって来たのじゃないでしょうか。そういう行き方も絶対徳を受けるです。それが徳のエサです。どういう時であってもドッコイ、とこう合掌して受ける心が徳になるんです。
だからおきて来たそのことは徳のエサなんです、ね。
今日私が頂いた言うならば斜陽教団の中にあって合楽だけはそれこそ日に月におかげを頂いておる。
昨日は九九九名というご理解を頂いたですね。
昨日のお届数がそうじゃった。
今日は九八九と言うのである。どげん思うですか。苦労は修行。けれども八は広がる。広がるための修行なら竹内良子さんの場合はそうです。九、けれども広がるための九だと、ね。お徳を頂く為の修行だという事になるでしょうが、私は今朝から一寸見てから九八九と言うのを見てそれを一番に感じたら今日のご理解でした。
そして私の今朝から頂いたお夢とそれとこれとを、ね、こう混ぜ合わせて話すと今日のご理解になるわけですね。
信心は何と言うても日々の改まりが第一。日々の改まりが出けなければ、ね、次の姿勢が出けんですね。
そして家庭に不和のなきが元。これならもう必ず夜はそれこそ朝の忙しさ、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜のありがたさ、と言う本当にあれもこれもがお礼を申し上げることばっかりであった、と言うような心の状態で寝るならばそれが大晦日の心でありますから、元旦のそれこそおめでとうございますと言わねばおれんような心がで、目覚ましのおかげを頂くことが出来るのです。そういうおめでとうございます、というそういう心です。
昨日は日向教会の奥さんからお礼の電話がかかってきた。私は「はいはい大坪ですよ。」というたら「今日はおめでとうございます。」と言うのが一番口じゃた。前の日のご大祭がここから沢山、ここからは先生方の三人ですけども、もとにかく庭に立って拝むごとあった。廊下にもどうでんこうでん畳を敷かなこれは座られん、という御直会の時に話しが出たらある信者がです、私の方に丁度ここに敷くだけくらいの畳が余っとるからそれを持って来ましょう、と言うて晩にはそこに畳を敷きこんでくれたと言う。そういう生々としたおかげを頂いておるのですから一番口におめでとうございます、と言うことでした。本当に昨日はおめでとう、と私は申しましたが昨日じゃない。
今日もまたおめでたいのだね。それにはね、やはり言うならば朝の清々しさ、昼の忙しさ、という家業の行が、ね、本当に出来なきゃいけん。
どうぞ皆さん、日参、教聴、心行、家業の行が伴うて、ね、も絶対の言うなら日勝り。月勝りのおかげが受けられる、ね。
そして言うならば代勝りのおかげを頂くことの為にです、お徳を受けなきゃならんと言う事です。代勝りのおかげ。自分の代よりも子供の代、孫の代に広がっていくような、言うならば九八九なんです、ね。広がる為の修行と言うのは今申します私共の行く手にはどういうことがあるやらわからないけれどもそれをどういう場合であってもおかげとこう受けられる心の状態をいつも作っとかなきゃならんという事でございますね。
どうぞ